191杯目:富士そば代官山店でさっちゃんのいなり寿司 |
小学生のころ、国語の教科書で「ちいちゃんのかげおくり」という、おはなしを読んだ。少女ちいちゃんが、戦火のなか家族を失い、ひとり残される。家族の命を奪った空襲から一夜明け、身も心も衰弱しきったちいちゃん。今際の際、ふらふらの身体で「かげおくり」(自分の影を見つめてから空を見上げると、空に白い影が映って見える遊び)をして、少女が青空に見たものは、存在するはずのない家族の幻だった。戦争の悲惨さはもちろんのこと、ちいちゃんと年ごろが近い小学生にとっては、我がことのように置き換えられ、トラウマとして記憶に残っている人も多いだろう。かくいう、私もそのひとりだ。雲のない青空を眺めていると、かげおくりのシーンが頭をよぎる。
先日、ひさしぶりに、この作品のことを思い出した。場所は、富士そば「代官山店」。そのとき私は、「さっちゃんのいなり寿司」(80円)を食べていた。「さっちゃんのいなり寿司」と「ちいちゃんのかげおくり」。とてもよく似ている。
店内は、昼食どきをやや過ぎていたが、けっこうな混み具合だった。従来、富士そばでは、カウンターで食券を渡したら、店員に席で待つように促される。しかし、この店の場合は逆。料理が提供されるまで、客はカウンターの前で待たなければいけないのだ。客が列をなし、カウンター前に並んでいる様子は、学食の配膳コーナーのようだ。店内は、カウンターのある細い通路を通じて、店の奥にある広い飲食スペースへ向かう造りになっている。混雑時、各々の客がカウンターと席を往来すると、通路はたちまち渋滞してしまう。それを避けるため、学食スタイルが効率がいいのだ。
カウンターでは、カラス声のオバチャンが、客を裁いていた。はすっぱというか、がらっぱちな態度が、学食感をより強めている。オバチャンには、ちいちゃんと同じ時代を生き抜いたたくましさがあった。おそらく、彼女が「さっちゃん」かもしれない。そうであってほしいと思った。さっちゃんは、かつて飲食店でも持っていたのではないだろうか。あの客さばき、パートのオバチャンが一朝一夕で習得できるものではない。自分の店を畳み、流れ流れて富士そばへ。ファストフードとはいえ、料理人のスピリッツは健在で、それなら昔を思い出して、いっちょやってみるかね、と選んだ一品がいなり寿司というわけ。甘さひかえめの油揚げはとても素朴で、どんなメニューにも合わせやすい。さっちゃん本人(たぶん)を前にしているから、おいしさもひとしおだ。さっちゃんには、いくらマージンが入るのだろうか。
よく知りもしない店員に思いを馳せ、ハートウォーミングな気持ちになった数日後のこと。富士そばのFB公式アカウントのリリースに打ちのめされた。「さっちゃんのいなり寿司、販売1000個達成!」。「近々販売店舗の拡大を致します」。いなり寿司がFBで紹介されたのが4月6日、そして1000個達成の報告が同月26日。単純計算で、1日50個ちかく販売したことになる。さらには、販売店舗も拡大するという。ここまでくると、個人の仕事ではなくなってくる。惣菜業者でも間に入ってるのだろうか。だったら、さっちゃんって誰!? あの、オバチャンは何者!? 私が思い描いていた「さっちゃん」こそ、幻だったのだ。
希少性:★★★ インパクト:★☆☆ コスパ:★★☆